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第4森ビル

東京/新橋

東京都港区虎ノ門1-17-1

■レポート

創業から半年後の1960年9月、「第2森ビル」から「第4森ビル」に引っ越しました。ペントハウスの次のオフィスはなんと地下でした⁉︎ 10月から法人組織に改め「株式会社大学広告」に(取引先の八幡製鉄から、個人会社では注文が出せないと言われたからだそう。資本金60万)
周年誌には、第4森ビルの住所は「港区芝西久保桜川町1」とあります。早速~取材しようとGoogleで検索したものの、そんな住所はない。いろいろ調べると、この辺りのエリアは多くの町名変更があり、1977年8月末に芝西久保桜川町は廃止されていました。
港区のホームページからヒットした芝地区の旧町名由来板を探しに新橋に向かいました。由来板を発見して「港区芝西久保桜川町1」を探したところ、「虎ノ門ヒルズ」辺りが該当しそうです。
そう虎ノ門ヒルズは森ビルの物件、第4森ビルは60年の時を経て、虎ノ門ヒルズに進化したのだと思われます。(投稿後、森ビルの広報に問合せして、第4森ビルがあった場所では、現在〜虎ノ門ヒルズビジネスタワーだと確認できました)
第4森ビルの地下については、周年誌にさまざまなエピソードが書かれています。鶴岡さんのぼや騒ぎがヤバいっ!
・「ビルの地下室が会社のオフィスになることをそのときはじめて知った」(池田友之さん・創業10周年誌『リクルートと私』)
・「地下の5坪ほどの広さの1室がオフィスで、机と椅子が5つ、長椅子とロッカーが1つずつ、キャビネットが2つという家財道具で、社員は私を含めて4名、あとはアルバイターでした」(池田幸子さん・創業10周年誌『リクルートと私』)
・「その年もおしつまったある日の夜明け前、その日は徹夜のつもりで応接室のテーブルの下に電熱器をおき、毛布を上からかけ、コタツ式にして仕事をやっていた。と、いつの間にか眠り込んでしまったのだ。息苦しいか熱いかで目が覚めたのだろう。ハッと気づいたら、部屋の中は白煙もうもう、あわてて立ち上がろうとテーブルに手をついたら焼けてガグッと壊れ、毛布もズボンも、さらに座っていたソファまで焦げ付いていた」(鶴岡公さん・創業10周年誌『リクルートと私』)
そして1年10カ月後の1962年7月に、同じ第4森ビルの4階に引っ越し、1963年4月に日本橋室町の三幸ビルに行くまで、約2年7カ月の間、第4森ビルで創業期を過ごします。この場所で、『企業への招待』は創刊されました(1962年4月)
<本社所在地の変遷>◎は「兵どもが夢の跡」で発掘済み
◎昭和35年(1960年)3月:第2森ビル
★昭和35年(1960年)9月:第4森ビル地下
★昭和37年(1962年)7月:第4森ビル4階
◎昭和38年(1963年)4月:三幸ビル
◎昭和38年(1963年)8月:長谷川第3ビル
・昭和39年(1964年)9月:西新橋第3森ビル
◎昭和40年(1965年)9月:ニュー八重洲ビル
◎昭和42年(1967年)11月23日:神田橋第一ビル
◎昭和47年(1972年)8月20日竣工:リクルート西新橋ビル(糸藤友子)

・コメント

昨日〜森ビル広報にお電話して、問い合わせました。先ほど折り返しいただきました。森ビル広報様〜ありがとうございます。「第4森ビルは、一度、別のビルになりましたが、結果〜今は”虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー”が、建っています」と。やはり鶴岡さんがボヤを出した地下のあった第4森ビルは、虎ノ門ヒルズになりました。
兵どもが夢の跡〜。(糸藤友子)




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かもめ時代のお宝博物館

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