■レポート
リクルート創業から6年目の1965年9月、「第三森ビル」から、「ニュー八重洲ビル」(東京都中央区日本橋3丁目5-12)へ引っ越しました。
創業から7番目の本社オフィス〜ニュー八重洲ビルは、初の自社ビル(ビル全体ではなく、9階と10階の2フロアを買い取った)、しかし引っ越してすぐ昭和40年(1965年)不況で、9階では“貸し机業”を開業し、フロアを貸して収入を得ていたそうです。今でいうシェアオフィスやレンタルオフィスみたいなものかと…。
・40年不況で、業績不振で苦境になり、空いたスペースで貸し机業を始めた。電話料滞納のために電話が止められ、あわてて周囲から借り集めて急場をしのいだことも何度もある(江副さん談)(創業25周年記念誌「リクルート25」より)
今回も『かもめ』創刊前の神話の時代のことを、根本啓一さん(1968年4月入社)に同伴!? アテンド!? いただき、調査してきました。
なんとニュー八重洲ビルは、現在、名称もそのまま、1964年8月に竣工したまま、当時の先輩方が働いたビルがそのまま残っています(地下2階+10階建て)。竣工から約1年の新しいビルの9階と10階を、リクルートが購入しました。
・1965年、創業6年目、ニュー八重洲ビルは、自社ビル主義の初めての実践、「自社ビル」を建設するのではなく、「既存のビルの一部を買った」。10階建てビルの2フロア(9階と10階)を買い取り、オフィスとした。専有面積199㎡(61.4坪)、購入価格は4500万円(創業30周年記念誌『原点ブック』より)
・【自社ビル主義】われわれにとってオフィスは、メーカーにおける工場、小売業における店舗と同じ重要性をもつ。全国各地で、よい場所に、自社ビルをもつことも、きわめて重要なテーマと考えてきた(江副さん談)(創業25周年記念誌「リクルート25」より)
そして根本さんは、1967年7月に入社試験に合格し、8月に内定者アルバイト(NA)としてニュー八重洲ビルで働いた経験があるとのこと。貴重〜。
「最終面接はニュー八重洲ビルの10階。江副さんが出てきて、『すごい若いあんちゃんだなあ』と思った(当時の江副さんは30歳そこそこ)」「フロアが手狭で、別のビルの部屋を借りて会議などしていた。会議の資料が足らなくなり届けるのも仕事だった」「当時も八重洲の地下街があり、ビルまで雨でもぬれずに行けた」「夏は暇な時期で、オフィスに麦わら帽子の社員がいて、『これから海水浴に行く!』など言っていた。のどかな時代だったなあ」など、貴重なエピソードを教えていただきました。
そして1967年11月23日に神田橋第一ビルへ引っ越すまでの2年間〜ニュー八重洲ビルで、兵たちは働きました。
・コメント
探索ありがとうございました!ニュー八重洲ビルが現存していたとはびっくり!不況対策でこの狭いビルで貸机業に挑戦したり思い出は一杯です!(^^)! (岡崎坦)
岡崎さんがカモメモリーズ古淵にお越しくださり、お話してくださったエピソードで印象的だったこのビルでの思い出。1つは江副さんが逗子のご自宅からここまで車を運転して来ていたこと。もう1つは、お正月に初めて樽酒を開けて皆で祝い、独身の下田さんと岡崎さんの2人は夜もここで飲んでいて、飲みきれないから「残してはもったいない」とやかんや魔法瓶など会社にある器に入れて帰った。翌朝、福西さんが出社して、お茶を入れようとしたらお酒が入っていた!「誰がこんないたずらをするの!」と全部捨てた、とか。良い時代だったのですね。(Mieko Yoshizawa)
ニュー八重洲ビルにまつわるエピソード紹介。僕より1年先輩のYさん(女性)は、ニュー八重洲ビルで入社試験を受けて合格。初出社で会社に行くと、ビルからリクルートの看板が消えていて、もぬけの殻。彼女は、一瞬「騙された!。どうりで初任給が異常に高かったはずだ」と思ったそうです。(当時はリクルートのように男女同一賃金の会社は極めて珍しく、結果的に女性にとっては大変高い給料だった)。実のところは、神田のビルに移転した事を、会社が新入社員に伝えるのを忘れていたそうなんです😁。転居が多かったゆえの愉快なエピソードでした。(長谷川 和男)







